日本最西端の与那国島で一人と一頭から始まった南の島の馬暮らし。
そこに集まった馬好きな若者たちが沖縄中に散らばり、
それぞれの馬暮らしを始めています。





縁の不思議

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私、なんで与那国に行ったんだったっけ?

 

 今は沖縄本島にいて、ヨナグニウマと一日中顔を突き合わせて。これが、自分にとってはごくごく当たり前で自然で「ふつう」の生活になってしまったのですが、どうやら世の中の人にとっては全然「ふつう」ではないようで。

 

 30過ぎまで、東京で机にかじりつく仕事をしていました。「与那国」も「与那国馬」のことも聞いたことすらありませんでした。なのに、ある時期、いろいろな機会に「与那国」というキーワードが人生のなかに飛び込んでくるようになったんです。この人に出会ったから、あの人に出会った。そこから「与那国」というキーワードを初めてインプットしてくれたその人に出会って、そこからまた、同じキーワードの人やモノや音楽に広がって、ついには与那国に実際に行ってみないと、ということになって……
と、たどっていくと、たどり着くのは「縁」の不思議さ。こうやって、人々は何かに呼ばれてずいぶん遠くまで行くんだなぁ、としみじみ思うのでした。

 

 さて、広場の話です。

 私が与那国に行った頃、私のような人たちはまだ「助っ人」と呼ばれていました。文字通りの助っ人で、滞在費は自分もち、朝早くから馬の世話や草刈りに出かけ、昼間は新聞配達、日が暮れるまで馬の世話や、施設をつくったり直したりという土木作業。なかなかにハードな生活でしたが、どこにでも馬がいる風景のなかで、ギラギラの太陽の下で汗をかき、それを冷やしてくれる心地よい風を全身に感じながら肉体を使う日々は最高に気持ちがよかったのです。南牧場を走る軽トラの荷台の上で、風と海と空に向かってうひゃーっと叫んでいたことを今でも思い出します。今はさすがにそんなことはしませんが(笑)。

 

 今でも不思議でならないのですが、その頃も、そして今でも、それまでの東京での生活がエソラゴトのように遠くに感じられ、自分がそんな暮らしをしてきたことがウソのよう、まるで他人の人生のように感じられました。どうしても「東京に帰る」ということがしっくりこなくて、もう15年もこんな暮らしをしています。

 

 その頃の助っ人さんたちは皆、短くて一か月、長くて一年以上、の長期滞在が主流でした。バイトをして、滞在費を払えるだけのお金を貯めて来て、馬との生活にどっぷり浸かり、何かをつかんで、あるいはもう一度、与那国に滞在するためのお金を稼ぐために地元に帰っていきました。帰るつもりがさらさらなくなっていた私は、島でバイトをして滞在費を作りました。塩をつくったり黒糖をつくったり、なぜか空港でグラホスの真似ごとをしたり。どれもこれも東京ではできない貴重な体験をしてお金までもらって、ほんと、感謝に堪えません。

 

 助っ人さんの中には、私と同じように島でバイトをしながら馬に関わり、ついには結婚して島に住み着いてしまった人もちらほらいます。生き物好きが高じて、島の博物館で仕事をしている人も。広場の馬が人を引き寄せ、その人の人生を180度以上変えてしまうのを見ていると、馬と縁の不思議にぼーっとしてしまいますね。